星のムーンサルト

タロットについてのあれこれ

自分を貫くとは、どんなときも、誰が何を言ったとしても、自分を諦めないことだ。自分が自分で生きていくことを諦めない、信じているならこつこつとでも続けてゆくことだ。若いうちのがむしゃらさも、歳をとってからの洗練された動きも、私たちをある方向へ突き動かす力というものはとても神秘的なものだ。女神が見えない糸を手繰り寄せるみたいに、それはそれは強い引力に導かれてゆくのである。
力のカードに登場するライオンは、情熱のシンボルとして描かれている。情熱というものは、若いうちは手を余らせてしまうものだが、向き合っているとうまく扱えるようになってくる。焦っても仕方ないとわかるし、取り繕ってもいずれ綻びることもわかる。やる気だけで突き進んでも突破できないこともある、しかし情熱というものの灯火は、何度壁にぶち当たってもそれが消えてしまうことはないのである。それでもうまくいかないことがつづくと、火は少しずつ小さくなりはするが、燻ることはあっても時間をかけてまた明るい火を灯すようになる。情熱は、生きてゆく力に他ならない。無視をすれば、灯された火の背後に翳るぼんやりとした闇にまるごと包まれてしまう。そうなってしまうと、肉体は生きていても心は死に向かってゆく。まるで生きる屍のようだ。生きたいと思う気持ち、それは私でいたい、という素朴な願いでもある。欲望や夢の達成だけが情熱が向かわせる場所ではない。情熱はいつだって、私というひとつのアイデンティティへの道筋を照らしているのだ。

太陽

こころの中では、感じたことが波紋となってその余韻と共に消えてゆく。はねっかえってくることがない世界はどこか心地よくて、ビーン、と弦を指で引いたときみたいな振動がじわじわと全身に広がってゆく感じがする。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、辛いことも。みんなみんな同じだ。"生きている"という感覚、それが心に映し出されているのだ。
さっき感じた嬉しい気持ちは爽やかな風と共にどこかへ消え去ってゆき、今は永遠に開かないドアの取っ手をひたすらにガチャガチャしている。楽しいことだけが生きている証ではないし、悲しいことは全く不幸なことではない。そのどれもが、いま私が生きている、という確かな実感なのである。
逆に「生きていることは素晴らしいことです!」なんて言われてしまうと、「別に生まれてきたくて生まれてきたわけじゃないの」と皮肉の一つでも言いたくなるから不思議だ。生きることの素晴らしさを押し付けられると逃げたくなるのに、脈が規則正しく打たれていることに妙な愛しさを覚えていたりもする。生きていることが良いことなのか悪いことかなんて私たちには判断できないけれど、それは決して理屈じゃない。
太陽のカードが示す生きるとは、きっと、理屈じゃないところで私たちの根に水を与えてくれるみたいなことだと思う。

節制

雲が流れてゆくみたいに、全ての出来事は慌ただしく、次の出来事へと移り変わってゆく。するとさっきまで考えていたことは宇宙の彼方へ、今はすっかり別のことを考えている。忙しない景色に立ち止まることができないのは、その忙しなさの中に深く見つめてみたい何かがないからなのかもしれない。ずーっとみつづけていられるような、美しさの折のようなものが。
本当はどんなものにも見つけられるはずだ。それがない、としてしまうこころの状態、それがこのカードの逆位置が示すところなのかもしれない。

雲が南に向かって流れていく。わたしはわたしを感じながら、その風景を眺める。南に向かった方が良いのだろうか、と考える。わからない。わからないまま過ごしてみる。わかろうとしている自分に気がつく。南に向かうべきかはわからないけど、わたしは西に行きたいような気がする。思いはどんどん膨れ上がり、わたしは西に行きたい気持ちを抑えることができない。だから私は西に向かいます、もしみんなが南に向かったとしても。自分を見つめるってこういうことなのではないだろうか。
節制のカードの真ん中で天使が弛ませている水は、私たちのこころを表しているようだ。

吊るされた人

我慢のプロセスの先に何があるのか、という視点を持つことは大切だ。なぜなら私たちは、なんらかの目的を持って、未来に向かって生きているからである。もちろん我慢はしない方がいいし、しなくていい我慢をした方がいい我慢であると認識している人はたくさんいる。大抵は何かを無意識に抑圧して生きているものである。抑圧は静かに一つの人格を殺していき、人生という真実に対して抵抗する力を奪ってゆく。

このカードを見てみると、吊るされている人物の表情は険しくなく、その背後からは後光が差している。そのことから、この人物が無抵抗に我慢に向かっているのではなく、我慢の先にあるものを明確にみていることが窺える。抑圧の仕組みに気付き、受け入れ、自分を信じることに開いているのだ。人は簡単に我慢しなくていい、というが、このカードはそうは言わない。このカードは、「我慢するべきこと、我慢しなくていいことをしっかり見極めろ」と心の奥に切り込んでくる。その時、我慢は犠牲ではなくなり、苦しさから解放されるのである。

私たちは夢をみる。それは長い長い精神の旅だ。夢の中では肉体という制限がない分現実よりも鋭くなり、様々な感情を起きている時の何倍もの感覚で感じ取ることができる。愛しい人の中に別の人の面影を見る。それは大きな大きな不安という足跡を残していく。夢なのに、普段の何倍も心が痛む。気のせいにするにはあまりにもリアルだ━感覚だけの世界とはこういうものなのだ。肉体などの外枠がない分、感覚を別の何かで誤魔化したり、何かが起こるなどしてそれを遮ることがない。感じていることだけがこの世界の全てで、そこから逃れることができない。地獄とは、実はそういう精神の世界のことなのかもしれない。

目が覚めて、しばらくはうつらうつらと精神と肉体の狭間で行ったり来たり、やっと肉体という乗り物に精神が馴染んできたら今度は感じていたことがぼんやりとしてきて、「あれは夢か」と思った途端に、精神世界は急速に、銀河の果てへと遠ざかってゆく。

隠者

隠者のカードから漂ってくる気配が好きだ。老成した者からしか発することのできない哀愁と静けさと、痛みや苦悩を知る者の優しい眼差しは、若さゆえの過ちをふわりと包み込む暖かさがある。映画スターウォーズで語るならば、隠者はヨーダだろう。
(この時点で充分に隠者である気がするのだが)エピソード1〜3で描かれている厳格さと、それ以降の、アナキンがダークサイドに落ちていった後の深い後悔や自責が滲む彼を比較するのがわかりやすい。しかしそれらに支配されているのではなく、それを受け入れているということが、また別の性質を彼の中に宿している。

長く生きるということは、それだけの時間を自分に与えていくことだけれど、痛みや後悔というのは時間と共に均されてゆき、なくなりはしないが疼くことが減っていく。あんなに許せなかった過去の出来事も、不思議とぼんやりとした輪郭を残すだけのものになっていく。生きているということは、時間の恩恵を受けるということでもある。時間の恩恵とは、降り積もってゆく時間に反比例するように、記憶の中から痛みが減ってゆくことなのかもしれない。それがこの世界に恨みや憎悪を残すことなく、愛しいままで去ってゆくための計らいであるなら…この世界にやはり神はいるのかもしれない。

月は美しい。神話や御伽話に登場する月はどこか幻想的で儚く、しかし満ちていくにつれその儚さが色気を帯び強い力を放つようになり、月が出てくるだけで物語がぐっと神秘的になる。その昔、海を渡る人々が夜の海で月の光を眺めながら何を思ったのだろうと考えるだけで、言葉の代わりに儚い吐息が出てきてしまうみたいに。もう帰れない昨日という時間やもう2度と会うことのできない愛しい人…月が見せる夢は時をこえ、いつまでも心の郷愁に語りかけてくる。

タロットにも月のカードがある。端的に言えば、"迷い"や"幻想"を示す大アルカナと呼ばれるものである。大アルカナの中で月はその前後を星と太陽に挟まれている。星は希望を表すカードなので、その次にやってくる月は、希望が叶う予感が大きくなればなるほど途端にそれが叶うことが怖くなる、という状況を表している。(ちなみに、次の太陽で、その希望は叶えられる)

月のカードは、現実に少しだけ、不安というスパイスを振りかけていくので、それがかかると、今まで鮮やかにくっきり見えていた計画の輪郭がぼんやりし始め、どこまでもひろがっていった大きな夢は、途端に綻びを見せ始める。しかしその始まりにはいつだって「気のせいだ」「何もおかしなところはない」と私たちは処理してしまうのである。
いつもと違う感じがすることにはなんとなく気がついているのに、日常は同じように過ぎていく。少しの違和感を異常と検知するように、私たちの脳のシステムは作られていないようだ。その違和感が現実のものであると認識できるのはそれが形になってからで、いつも通りにできていたことがいつも通りにいかなくなって初めて、「私は不安を感じている」と理解するのである。このカードは表面的な動きとは別の何かに支配されていく様子をとてもよく表現していると思う。