恋人たち
恋人たち、と名付けられた通りに、恋愛成就のカードだが、他にも'選択'という意味を持つ。正位置で出れば正しく選べる、逆位置で選べば迷いが出て選べない、といった具合にである。
ウェイト版では、アダムとイヴの失楽園がモチーフになっている。神の掟に従うのか、禁断の果実を食べるのか、という選択を迫られる、あの有名な場面である。
一方マルセイユ版のタロットでは、2人の女の間に男が1人。どっちを選ぶの?と詰め寄られている絵柄となっている。3人の頭上にはキューピッドが描かれているが、その存在が選択する際の人間の露骨さを際立たせるようで好きである。
この構図を見るたび、私たちはすべての物事を自分で選んでいると思っているが、実はそんなことはないのかもしれない…とオカルト世界の扉を開きたくなる。
女教皇
このカードは、真面目さや勤勉さ、敬虔さなどを表すことが多い。ウェイト版では、カードは全体的にブルーで描かれているが、ブルーというのはそもそも霊性や霊格を示す色なのである。学校にいれば、学級委員になるタイプ。もしくは生徒会活動などをしようというタイプである。
しばしば冷静で堅物のように語られる女教皇であるが、私は女教皇は、女帝のカードと同じくらい優しい女性であると思う。むしろ、優しすぎて傷ついてしまった女性のように見える。自分のことだけでなく、他者に対する思いやりがあり、世間で起こるさまざまな事件を自分に関係ないこととして切り捨てずに、個人の問題として深く考えることが出来る人物である。優しさとは、甘いだけでは決してない。時には厳しさが必要な時もある。この人物は、愛する人を突き放すことが出来るほどの愛を持ち合わせているように思う。
このカードはいつでも凛としていて、かっこいい。ドロドロした展開でこれが出れば、涼しげな風が吹いてくるようである。
女帝
愛と豊かさがイコールで結ばれるのは、西洋占星術で表されるところの金星たる所以だろう。金星はイシュタルの守護星でもあり、美と豊穣の象徴である。
タロットで女帝のカードが出れば、それは愛や豊かさを表し、特に女性の幸せを意味するものとなる。何かを獲得することに喜びを見出す皇帝のカードと違って、女性の喜びは与えられるという質にあり、自分が守られているという感覚に繋がっている。しかし現代にこの解釈が当てはまるとは到底思えない。よって今ならば、ある程度満たされているという幸福感、逆位置ならば平穏さ失う事への極端なおそれ、それらを表す事だろう。
贅沢の質が徐々に変わってきている、と思う。毎日がほどほどに贅沢なことに慣れすぎてしまっているのである。しかし質素であることが美徳であるというわけでもない。お金があろうがなかろうが、その豊かさの基準は心の中にしかなく、通貨という共通単位で図ることができないということを知るものと知らないもので二極化しているのが、この現代なのである。前者にとってこのカードが出ればそれは豊かさという奥行きのあるもので語ることができるが、後者にとってはあまり冴えない、今やそんなカードかもしれない。(と、2024年の私はそう思っている)
皇帝
大いなる勇気、視野の広さ、統率力、行動力、責任感…皇帝のカードが表すもの、それは男性性に代表される質である。流れを見極め、それに乗ること。そしてその状況を楽しむような度胸や器。流れと勇気が繋がった時、大きな波が全てをさらっていくみたいにさまざまなことが面白いほどに次々と達成されていく。それは非常に明確な、何が起こっても目指すべき方向に舵が取られてゆくエネルギーである。
社会という枠組みのリーダーになることには適性があるかもしれないけれど、誰もが勇敢に自分の人生のリーダーシップをとり、波乗りを楽しむ器を持ち合わせている。人生の主役はいつだって自分であり、うまくいかなくなる時はいつでも、その主権を他者に奪われているはずだ。責任とは外側に発生するものではなく、自分自身の真実に向けられるものであり、自分の真実に対してクリーンでいる態度に他ならない。
法王
法王のカードは、法王を真ん中に2人の司教が並ぶことで正三角が作られる。正三角は神への祈りを象徴する図形であることから、信仰や祈り、保護を意味するのがこのカードである。
変わっていく景色の中で変わらないものがある、そのことは私たちの所在なき心を無意識のうちに落ち着かせている。辛いことがあった後で、昨日となんら変わらない1日があること。いつも通る道に、どんなときも変わらずに佇むお店。毎朝同じ時間に洗濯物を干しているお母さんに挨拶をすること。全てはいつかなくなってしまう、そんなことはわかっているけれど、この変わらなさができるだけ長く続いて欲しいという願いは私たちの未来へのささやかな祈りである。
いつもはそんなことは感じようとしないし、調子のいい時は見向きもしない、けれど人の優しさに触れたときにふんわりと見えることがある。祖母がお茶を淹れる時の丁寧な仕草だったり、祖父が唯一作ってくれたごはんに込められた思い。父が作る日曜日の朝ごはんの豪華さや母がこっそりクローゼットの中に自分だけのお菓子を隠し持っていたこと。人が日常を祈るように生きている痕跡を。
どうか、大切なあの人が今日も笑顔でいられますように。
どうか、わたしのような思いをすることがありませんように。
どうか、何事もなく1日が平和に終わりますように。
どうか、1日でも長く、この世界が続いていきますように。
そんな美しく哀しい、人間のちいさな祈りが、神という偉大なるものを作り出したのかもしれない。
悪魔
悪魔のカードのとても面白いことの一つは、その構図を恋人たちのカードと同じくしていることである。愛はあるレベルでは地上最大の幸福のようであるが、あるレベルでは地上最大の苦しみとなる。欲というものの前で、私たちは天にも昇るような気持ちにもなれるし、餓鬼のように満たされることに執着してしまうのである。
悪魔というのは、現代的に言えば記憶であったり、それに伴う思考であったりで、私たちの最も弱い場所を見つけるのが得意である。隙があれば瞬く間に侵食し、外側の闇と繋がりその勢力を強める。また、多数決によって私たちを外側から支配しようとする。
悪魔は人がいる限り、決していなくなりはしないだろう。しかし、悪魔に取り込まれてしまう人もいれば、悪魔の声に決して屈しない人もいる。欲というものが悪なのではない。欲というものについて考えること、これが悪なのである。何かを得るための理由ばかりがこの世界には溢れている。理由だけが先回りして、私たちは本当に欲しいものに出会うことができないだけだ。
死神
死というものは人にとって最も怖いことのようだ。それは死の先にあるものが何か、わからないからである。その先に何もない、ということがどういうことかわからない。何かが終わる時も同じだ。何かが終わった後のことがわからないから怖くなる。だから次のことを先に決めたり考えたりして安心を得ようとする。そう考えると、私たちが1番恐れを感じていることは'終わること'ではなく'わからない'ことである。
現実には、わかる世界で生きるよりもわからない世界に生きた方が、より自分にフィットする出来事が起きたりする。自己認識というのは独りよがりで、「これが私」と信じている自分は、理想や憧れが色濃く反映されていたり、育った環境や体験などから自分を過小に評価していることが多い。現実が思った通りにならないなら、それは自己認識が大きくずれている可能性がある。死神のカードはその自己認識にメスを入れる。いつまでも理想や憧れ、または卑下にしがみつく私たちの目を覚まさせる。理想が悪いということではない。理想よりも素晴らしいあなた自身がいるのだと、何かを終わらせることで伝えようとする。生きていく中で、作られたアイデンティティは何度も死んでゆくが、その度に現れるのは本当の、美しい光の粒なのである。