星のムーンサルト

タロットについてのあれこれ

女帝

愛と豊かさがイコールで結ばれるのは、西洋占星術で表されるところの金星たる所以だろう。金星はイシュタルの守護星でもあり、美と豊穣の象徴である。
タロットで女帝のカードが出れば、それは愛や豊かさを表し、特に女性の幸せを意味するものとなる。何かを獲得することに喜びを見出す皇帝のカードと違って、女性の喜びは与えられるという質にあり、自分が守られているという感覚に繋がっている。しかし現代にこの解釈が当てはまるとは到底思えない。よって今ならば、ある程度満たされているという幸福感、逆位置ならば平穏さ失う事への極端なおそれ、それらを表す事だろう。


贅沢の質が徐々に変わってきている、と思う。毎日がほどほどに贅沢なことに慣れすぎてしまっているのである。しかし質素であることが美徳であるというわけでもない。お金があろうがなかろうが、その豊かさの基準は心の中にしかなく、通貨という共通単位で図ることができないということを知るものと知らないもので二極化しているのが、この現代なのである。前者にとってこのカードが出ればそれは豊かさという奥行きのあるもので語ることができるが、後者にとってはあまり冴えない、今やそんなカードかもしれない。(と、2024年の私はそう思っている)

皇帝

大いなる勇気、視野の広さ、統率力、行動力、責任感…皇帝のカードが表すもの、それは男性性に代表される質である。流れを見極め、それに乗ること。そしてその状況を楽しむような度胸や器。流れと勇気が繋がった時、大きな波が全てをさらっていくみたいにさまざまなことが面白いほどに次々と達成されていく。それは非常に明確な、何が起こっても目指すべき方向に舵が取られてゆくエネルギーである。

社会という枠組みのリーダーになることには適性があるかもしれないけれど、誰もが勇敢に自分の人生のリーダーシップをとり、波乗りを楽しむ器を持ち合わせている。人生の主役はいつだって自分であり、うまくいかなくなる時はいつでも、その主権を他者に奪われているはずだ。責任とは外側に発生するものではなく、自分自身の真実に向けられるものであり、自分の真実に対してクリーンでいる態度に他ならない。

法王

法王のカードは、法王を真ん中に2人の司教が並ぶことで正三角が作られる。正三角は神への祈りを象徴する図形であることから、信仰や祈り、保護を意味するのがこのカードである。

変わっていく景色の中で変わらないものがある、そのことは私たちの所在なき心を無意識のうちに落ち着かせている。辛いことがあった後で、昨日となんら変わらない1日があること。いつも通る道に、どんなときも変わらずに佇むお店。毎朝同じ時間に洗濯物を干しているお母さんに挨拶をすること。全てはいつかなくなってしまう、そんなことはわかっているけれど、この変わらなさができるだけ長く続いて欲しいという願いは私たちの未来へのささやかな祈りである。

いつもはそんなことは感じようとしないし、調子のいい時は見向きもしない、けれど人の優しさに触れたときにふんわりと見えることがある。祖母がお茶を淹れる時の丁寧な仕草だったり、祖父が唯一作ってくれたごはんに込められた思い。父が作る日曜日の朝ごはんの豪華さや母がこっそりクローゼットの中に自分だけのお菓子を隠し持っていたこと。人が日常を祈るように生きている痕跡を。


どうか、大切なあの人が今日も笑顔でいられますように。
どうか、わたしのような思いをすることがありませんように。
どうか、何事もなく1日が平和に終わりますように。
どうか、1日でも長く、この世界が続いていきますように。


そんな美しく哀しい、人間のちいさな祈りが、神という偉大なるものを作り出したのかもしれない。

悪魔

悪魔のカードのとても面白いことの一つは、その構図を恋人たちのカードと同じくしていることである。愛はあるレベルでは地上最大の幸福のようであるが、あるレベルでは地上最大の苦しみとなる。欲というものの前で、私たちは天にも昇るような気持ちにもなれるし、餓鬼のように満たされることに執着してしまうのである。
悪魔というのは、現代的に言えば記憶であったり、それに伴う思考であったりで、私たちの最も弱い場所を見つけるのが得意である。隙があれば瞬く間に侵食し、外側の闇と繋がりその勢力を強める。また、多数決によって私たちを外側から支配しようとする。
悪魔は人がいる限り、決していなくなりはしないだろう。しかし、悪魔に取り込まれてしまう人もいれば、悪魔の声に決して屈しない人もいる。欲というものが悪なのではない。欲というものについて考えること、これが悪なのである。何かを得るための理由ばかりがこの世界には溢れている。理由だけが先回りして、私たちは本当に欲しいものに出会うことができないだけだ。

死神

死というものは人にとって最も怖いことのようだ。それは死の先にあるものが何か、わからないからである。その先に何もない、ということがどういうことかわからない。何かが終わる時も同じだ。何かが終わった後のことがわからないから怖くなる。だから次のことを先に決めたり考えたりして安心を得ようとする。そう考えると、私たちが1番恐れを感じていることは'終わること'ではなく'わからない'ことである。
現実には、わかる世界で生きるよりもわからない世界に生きた方が、より自分にフィットする出来事が起きたりする。自己認識というのは独りよがりで、「これが私」と信じている自分は、理想や憧れが色濃く反映されていたり、育った環境や体験などから自分を過小に評価していることが多い。現実が思った通りにならないなら、それは自己認識が大きくずれている可能性がある。死神のカードはその自己認識にメスを入れる。いつまでも理想や憧れ、または卑下にしがみつく私たちの目を覚まさせる。理想が悪いということではない。理想よりも素晴らしいあなた自身がいるのだと、何かを終わらせることで伝えようとする。生きていく中で、作られたアイデンティティは何度も死んでゆくが、その度に現れるのは本当の、美しい光の粒なのである。

魔術師

春が訪れようとするとき、これから咲き乱れる花々を思い浮かべてワクワクするように、何かが始まる予感、それはまだ起こっていない未来を感じてワクワクドキドキ、心を踊りときめかせる。花が咲かない春なんてないと私たちは堅く信じて疑わない。錬金術もそれと同じだ。金ができないだなんて絶対に思わない。魔術師は疑わない。信じる必要もない。目を瞑っていても金はできるのだ。魔術師のカードが表すはじまりやクリエイティビティ、それは信じるも何も起こるから起こる、という事実だけを見つめている。
可能性というものを信じて疑わない。この世界に不可能なんてない。不可能なら最初からやろうと思うことすらないだろう。可能性の扉は四方に広がっている。すべての可能性は未来である。たとえ天地がひっくり返っても、起こることは起こるのだろう。そんなとき、魔術はファンタジーの世界の中のものではなくなり、この世界にそのリアルさを露わにするのである。

審判

運命というのは、魂によって起こされる。縁と縁が強く惹きつけ合い、出会うべきものを出会わせ、繋ぐべきものを繋いでいく。 運命の前で、私たちは無力だ。どんなに抵抗しようが、逃げようとしようが、予め仕組まれたかのように動き出してしまう。その動きは美しく、優雅で、まるで大いなる手が介入したかのようである。一瞬の隙も与えられずに、いつのまにか完璧なレールの上に立たされている。
審判のカードに描かれている光景は、聖書の黙示録のなかのとあるひと場面であるといわれている。黙示録では、神を信じなかった全ての人間が滅びてしまうが、直接殺されるのではなく、自然を失わせることで、人間を死に至らしめる。面白いことに、運命を信じなければ、これと全く同じことが起こる。逃げ道は塞がれ、抵抗は虚しく宙を切る。"私"には直接的に何も起こらない。ただ周りが、状況が、その道を選ばざるをえないように整えられてしまうのである。これが運命でなければ、一体何であろうか。まるで空が、全てを見渡す目を持って生きているようだ。